大江健三郎さんと柄谷行人さんは、私にとっては小説と批評のそれぞれのジャンルのヒーローです。
その二人の対話、ということですぐ入手して読みました。
最近の対話かと思ったら、1990年代に行われた対談が収録されていました。
少しがっかり。
対談は、1994年6月「中野重治のエチカ」、1996年5月「戦後の文学の認識と方法」、そして大江さんがノーベル文学賞を獲ったあとの1995年3月「世界と日本と日本人」の三つ。
加えて、柄谷さんによる序文「大江健三郎氏と私」が付されています。
二人ともむちゃくちゃ頭がいいうえに、読んでいる本の量も読みの質もレベルが高すぎてついて行けません。
こんなやり取りもあります。
大江 僕は科学が好きでいて、新しい科学機械に不審の念を持っています。
という大江さんは、電子レンジは放射能を発すると考えて、しばらく導入しなかったそうです。
ファックスについても、いろいろと疑念があったのでしばらく様子を見ていたのですが、ようやく使い始めました。
大江 (略)使ってみると、ファックスで世界を結んで通信し始めれば、人間の知的なレベルは革命的な進展を起こしうるのじゃないかとつくづく思ったんです。
柄谷 でも、大江さん、それは技術的にはだいぶ遅れていますよ(笑)。いまはインターネットの時代です。
最近の大江さんの小説では確かインターネットで調べるエピソードが書かれていたので、導入されたのかもしれません。
柄谷さんの序文にもあったが、「小説の終わり」について大江さんが語るところは見どころの一つです。
小説という様式は、総合的に世界を把握するということについては近代では有効だった、と大江さんはいいます。
しかし、小説のできることは近代のはじめに、例えばスターン、ラブレー、セルバンテスによってほとんどなしとげられてしまった。
小説は、わけのわからないものを書くということから、過去の小説の批判をする小説へと移っていきます。
通時的にも、そして小説家個人の中でも。
大江(略)いつも前を見て、わけのわからない方向へ向かって書いていく、それが小説です。認識していないものをなぜ書けるかというと、物語るという技術があるためです。そういうわけで、前を向いて書いている分には健全ですけれども、それがいつのまにか後ろを向いて、自分の書いたものを検討しながらやるようになった。つまり自分にとっての小説の終わりというものを書こうとしてきたように思いますね。(略)
そう言う大江さんは、ロレンスを読んでいる。
ロレンスの小説は小説を書く喜びに満ちていて、しかも読者にはわけのわからない方向に向かっているのだという。
大江(略)あれがやはり小説というジャンル自体のエネルギーで、どうもロレンスのころで小説は終わったんじゃないだろうか。僕たちの同じ時代の作家、ギュンター・グラスのようなすぐれた人でも、ガルシア゠マルケスのような人でも、バルガス・リョサにしても、アップダイクにしても、みんなあのようなどこに行くかわからないものをひたすら書かずにはいられぬ喜びは持っていない。かれらに先んじて最初に後ろを向いて書き始めた人はクンデラですよ。前を向いて、ものすごいエネルギーで書いている小説家は、今はもういないんじゃないか。つまり小説というジャンルは終わろうとしているんじゃないか。(略)
一方の柄谷さんはこの対談を終えて4年後、今世紀に入って文学批評の仕事をすべてやめてしまいます。
文学は終わった、とかよく聞きますが(いや、もう聞かないのでほんとうに終わったのかもしれませんね)、小説と批評の「玄人」である二人の発言は重要だし、私たちはそれを前提に小説を読んでいかねばならないのでしょう。
それでも「わけのわからない方向」に向かう小説の登場を待望してしまうのですが。
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